
1. 神の救いの計画と聖霊の時代
神がこの地にもたらされた救いのご計画(経綸)は、人類史の始まりから続いてきた偉大で驚くべき計画である。創造の時から人を神のかたちに創り(創1:26)、完全な交わりへ招かれた神は、人間が罪によって堕落した後も決して見捨てることなく、救いへと導く道を備えておられた。張ダビデ牧師は、このような神の救いの計画を強調し、それこそが歴史を動かす最大の原動力であり、人類が究極的にとらえるべき真理であると教えてきた。特に聖書全体を貫く主要な流れが、「罪深い人間を神が救い、永遠に交わりを続けようとされる計画」であることを常に想起させ、その計画の中で信徒が持つべき正しい信仰的態度を強調している。
張ダビデ牧師は、創世記の創造とエデンの園から始まる神の物語が、「創造-堕落-救い-完成」という大きな枠組みによって整理されると説く。神は完全な世界を創造し、人間に自由意志を許されたが、人類は罪によって神の御旨から外れ始めた。それでもなお救いの約束は決して破棄されることなく、アブラハムとイスラエル民族を選び取ることで、救いの器となる選民を立てられたのである。イスラエルの歴史は人類史の縮図であり、その中で示される神の律法と預言者たちの働きは、やがて来られる救い主、すなわちイエス・キリストを備える過程であった。張ダビデ牧師は、この流れの中で見られるイスラエルの失敗や裏切り、さらには彼らがメシアを完全には受け入れず、十字架につけて殺すに至った出来事ですら、神の偉大な救いの経綸に含まれる歴史であると説明する。
その救いの計画の頂点は、最終的にイエス・キリストの到来、そして十字架の代贖と復活に至る。人類史において最も驚くべき出来事である十字架は、神の公義と愛が交わる地点であり、救いの決定的な出来事だ。張ダビデ牧師は「人間は自力で救いを達成することはできない」という事実を強調し、まさにこの点においてキリストの贖罪の働きが絶対的であると力説する。イエスが十字架で血を流されたことによって、罪人に永遠の命への道が開かれ、復活によって死の権勢は無力化されたのである。これはすなわち「人間が自らを救えないことを完全に認め、ただイエス・キリストの十字架をつかむときにのみ、義とされ得る」という福音の核心を示している。
さらに張ダビデ牧師は、復活によってもたらされた新しい時代、すなわち聖霊の時代を大きく強調する。イエス・キリストが復活した後に天に昇られ、教会はイエスが送ると約束された聖霊を受けることになる。それは使徒の働き2章におけるペンテコステ(五旬節)の聖霊降臨によって顕著に示され、これによって初代教会は新たな力と大胆さを得た。彼らは、以前まで師であるイエス・キリストが捕らえられ殺されると、恐れのあまり隠れていたが、復活の主を目撃し、聖霊によってすべての恐れを克服し、大胆に福音を宣べ伝える者へと変えられたのである。
イエス・キリストの時代と聖霊の時代が一つにつながる接点において重要なのは、教会共同体の誕生である。聖霊降臨の出来事によって、以前とはまったく異なる霊的権能を得た使徒たちは、悔い改めてイエスを信じる人々にバプテスマを授けつつ、教会を建て上げていく。張ダビデ牧師は、この使徒の働きの出発点が信仰の歴史において非常に重要だと言う。神は単に律法や儀式で人を支配するのではなく、今や誰でもイエスの御名を信じ、聖霊を受ける者に救いの確証を与えてくださるからだ。その確証こそが復活信仰と救いの確信であり、教会がこの地で神の国を生きる力の根源となる。
こうした聖霊の時代が開かれたということは、人間のあらゆる可能性が回復される出来事だ。キリストのなされたことを信じ、その方と連合するとき、聖霊は罪の束縛と世の重荷から私たちを解放し、自由にしてくださる。その変化が個人の内面だけでなく、教会という共同体を通して現れるとき、この世が対抗し得ない力が発揮されるのである。初代教会の信徒たちが、自分の所有物を互いに分け合い、迫害に動じることなく福音を伝えることができた秘訣は、ただただ聖霊の力と復活信仰にあるのだと、張ダビデ牧師は強調する。これらすべては「神の救いの計画」の内にあり、救贖史(救いの歴史)の核心に他ならない。
張ダビデ牧師は、現代の教会こそこの聖霊充満を回復する必要があると訴える。今日、教会が世の様々な問題や葛藤に直面するとき、果たして初代教会が持っていた同じ力、同じメッセージ、同じ聖霊の働きが私たちの内にあるのかを問わねばならない、というわけである。教会は単に人を集め、活動を熱心に行う場所ではなく、聖霊の時代に復活の証をもって進んでいく「キリストの身体」である。その身体が聖霊に満たされるとき、イエス・キリストの贖罪と復活がもたらした救いの力が世のあらゆる場所で宣言され、誰かを変える福音の力として現れるのである。
またこの聖霊時代の幕開けは、個人の変化だけを意味しない。張ダビデ牧師は、聖霊の働きが内面的回復とともに教会共同体の誕生と繁栄をもたらし、その影響力が社会や文化全般にまで広がるべきだ、と幾度も強調してきた。歴史上、教会が最も強力な影響を及ぼした時期は、いつの時代であれ聖霊の強い御業があり、御言葉中心・悔い改め中心・イエス・キリストの十字架と復活の上に堅く立っていた時期であったという。まさにこの点は今日においても有効であり、私たちが心に刻むべき核心的課題であると説いている。
2. 悔い改めとバプテスマ、そして復活信仰
張ダビデ牧師が『使徒の働き』の講解で繰り返し強調する重要なテーマは、「悔い改め」と「バプテスマ」、そして「復活信仰」である。特に使徒の働き2章に記されているペテロの最初の説教は、これらのテーマを集約的に示している。イエスを殺した罪を自覚し、「では私たちはどうすればよいのでしょうか」(使2:37)と切実に尋ねる人々に、ペテロは「悔い改めなさい。そしてそれぞれイエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪の赦しを得なさい。そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょう」(使2:38)と宣言する。これは救いの核心的秩序であり、教会の基礎的教えである。
張ダビデ牧師は、「悔い改め」が何より先に、最も根本的になされるべきことだと語る。悔い改めとは、単に過去に犯した個々の罪に対する反省や後悔ではなく、神の御前で自分が罪人であることを痛感し、方向転換して神の道へ向かう全面的な回心である。張ダビデ牧師は、しばしば「悔い改めとは何か?」という問いがなされる背景には、悔い改めを漠然と「涙と悲嘆で罪を洗う過程」のように理解する傾向があるからだと指摘する。しかし聖書的な悔い改めは、単なる感情的な涙や自己憐憫を越えて、イエス・キリストの十字架の前で「自分には罪の赦しなくして救いは不可能である」と認め、自分中心の生き方を捨てて主中心に人生の主導権を移す実践的な決断だというのである。
張ダビデ牧師はまた、「悔い改めよ」という叫びが旧約と新約を貫いて続いていると説明する。旧約において預言者たちが「立ち返れ」と叫び、新約においてバプテスマのヨハネが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタ3:2)と叫び、さらにイエスも公生涯の始まりに「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタ4:17)と宣言された理由を、私たちは深く考えねばならないというのだ。結局、悔い改めは救いの出発点であり、天の御国を迎え入れる扉を開く鍵なのである。ペテロが「悔い改めて福音を受けなさい。そして聖霊を受けなさい」と叫んだのも、同じ文脈から理解できる。
悔い改めに続き、ペテロが宣言したのはバプテスマである。張ダビデ牧師は、初代教会が聖霊によって始まった共同体であるという事実を強調する。そして、その共同体に入る過程がバプテスマを通して成し遂げられる。バプテスマには、水のバプテスマと聖霊のバプテスマ、すなわち外面的に表れる水の儀式と、内面で起こる聖霊の臨在がともに働いている。水によるバプテスマは、自分の古い自我がイエス・キリストと共に死んだこと、そして新たな命で復活された主と共に生き返ったことを象徴的に表す。同時に聖霊のバプテスマは、キリストにあって新しく生まれ変わった存在として、聖霊の力と導きに全面的に従って生きるという信仰告白でもある。ゆえに教会共同体におけるバプテスマは、単なる宗教行事や加入儀礼ではなく、悔い改めとともに生まれ変わった魂が「主と合わさって一つの霊となり」(Ⅰコリ6:17)、世から区別された聖なる民となる出発点なのである。
次に重要なテーマが「復活信仰」である。張ダビデ牧師は、復活信仰こそすべての信徒が握るべき信仰の中心だと、何度も説教で語ってきた。イエスが十字架で死なれただけでなく、死の権勢を打ち破って復活されたことを信じる信仰、すなわち死の権勢がキリストの十字架と復活によって完全に崩れ去ったと確信する信仰こそが、キリスト者のアイデンティティだというのである。もし復活がなかったなら、キリスト教の信仰は単なる高尚な教えや道徳的倫理にとどまり、イエスをただ「偉大な教師や預言者」として記憶していたかもしれない。だがイエスが死を打ち破って復活されたことによって、「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。そして生きていてわたしを信じる者は決して死ぬことがない」(ヨハネ11:25-26)という約束が成就したのである。
張ダビデ牧師は「復活信仰を持つ者は死を恐れない」と言う。それは永遠の命に対する望みを持っており、この地上での失敗や苦難、さらには死すらも究極的な敗北ではないと確信するからにほかならない。初代教会の使徒たちと信徒たちは、この復活信仰を持っていたからこそ、投獄や迫害、殉教の脅威の中でも大胆に福音を伝え続けることができたのである。彼らは世の権力や暴力が決して踏み込めない領域、すなわち復活の力の中に立っていたからだ。張ダビデ牧師は、これを現代の信徒にも適用すべきだと教える。私たちの人生がときに崩れ、失敗し、痛みを経験するとしても、復活信仰を持つ者は「主にあって再び生かされる」という希望をつかんで立ち上がる力を得るのだと語る。
さらに張ダビデ牧師は、復活信仰が単に死後の永生の問題だけに焦点を当てているのではないことを思い起こさせる。復活信仰は、私たちが日々の生活の中で「復活の力」を体験するように招く。つまり霊的に死んでいた私たちを再び生かし、日常生活の中で幾度も「回復」や「奇跡」を可能にする信仰の力こそが復活信仰だというのである。これは個人の内面的回復に限定されない。教会や社会、文化全般が何度挫折や絶望を味わおうとも、「復活」という言葉が持つ力、すなわち神の全能なる摂理と約束が決して無効化されないという真理を、あらゆる場面で新たに呼び覚ましてくれるのだ。
こうして張ダビデ牧師は、最終的に悔い改めとバプテスマ、そして復活信仰が一つの流れの中で結びついていることを改めて強調する。「悔い改めはイエス・キリストの十字架のもとへ私たちを導く扉であり、バプテスマはその十字架で死んだ者が新しい命に生まれ変わったことを告白する儀式であり、そのすべての過程の完成が復活信仰へとつながる」というのである。この復活信仰は、単に教理的な同意や頭で理解する知識ではなく、実際の生活を変える力として働いてこそ、真の救いの実を結ぶのだ。
3. 初代教会の歴史と張ダビデ牧師の働き
使徒の働き2章以降に描かれる教会の姿は、「神の国」がこの地でいかに始まり、拡大していくかを示す驚くべき記録である。悔い改めとバプテスマを通して救われた人々が加えられ、教会は急速に拡大し、互いに交わりながらパンを裂き、祈りに励む共同体生活を通して、世とは区別された生き方の手本を示した。張ダビデ牧師は、この初期教会の物語が決して過去の神話や理想郷ではなく、現代の私たちの教会が目指すべき「原型」だと語る。その原型は、聖霊の強い働きとイエス・キリストの十字架と復活に基づいて打ち立てられたからである。
初代教会の信徒たちは自らの所有を惜しみなく分け合い、貧しい者や病人を助けた(使2:44-45)。これは単に善行を行うレベルを超え、復活信仰を持つ人々がこの世で神の国を体現する具体的な姿であった。教会が建て上げられ、御言葉を聞き、ともに礼拝し、すべてを共有する生活様式そのものが福音の力を証しすることであり、聖霊の働きによって日々その数は増し加えられていった(使2:47)。迫害や脅迫、政府当局者の干渉や弾圧があっても、彼らの大胆な福音宣教は止まらなかった。張ダビデ牧師は、このような初代教会の歴史を通して、私たちが今日の困難に直面したとき、どのような参考点を得るべきかを説いている。
では、初代教会が示した強力な生命力はどこから来たのか。それは前述した悔い改め、バプテスマ、復活信仰、聖霊充満の組み合わせから来るのである。そしてこれらすべてをより強固にするのが「神の救いの経綸に対する絶対的信頼」である。私たちはしばしば目に見える現実の問題や葛藤にとらわれ、神の業を限定的に見がちである。だが張ダビデ牧師は、「歴史の主権者はただ神であり、私たちにできることなどごくわずかなことにすぎない」とよく説教する。しかし、その小さく取るに足りない従順が、聖霊の力と結び合わされるとき、神の国は実に驚くべき方法で拡張されていくのだ。
こうした初代教会の精神、そして復活信仰や救いの経綸への強調は、張ダビデ牧師の働きにも深く反映されている。彼は教会を導く中で、また説教や著述活動を通して、常に「私たちがとらえるべき核心はイエス・キリストの十字架と復活であり、これによって始まった聖霊の時代」であることを知らせようとしてきた。また、教会の礼拝や共同体生活が、使徒の働き2章から続く初代教会のモデルを再現する場になり得ることを力説する。だからこそ礼拝や牧会活動、あるいは宣教の働きにおいて、「福音の本質」、すなわちイエス・キリストの十字架と復活、悔い改めとバプテスマ、聖霊の臨在といった要素を決してないがしろにしてはならないと、繰り返し注意を促している。
張ダビデ牧師は特に、「教会の使命とは、変えられた個人が集まって世に対して光と塩の役割を果たしていくことだ」と再三強調してきた。そして、そのような変化は人間的努力やプログラムだけで実現されるものではなく、聖霊の実際的な御業が起こってこそ可能なのだといつも説く。初代教会がそうであったように、私たちのあらゆる活動は聖霊の力強い臨在と知恵、そして復活信仰に基づくべきであり、それがなければ、いくら熱心に行動しても世的な運営論理に従うだけになりかねないというわけだ。
この観点から、張ダビデ牧師は教会の本質回復に努めてきたし、福音を単なる教理的知識ではなく、生活を変える力として伝えるために様々な働きを展開してきた。礼拝と御言葉の奉仕、弟子訓練、また地域社会への奉仕や支援活動から世界宣教に至るまで、「初代教会の使徒たちのように大胆に福音を宣べ伝えよう」という呼びかけをやめなかったのである。彼は信徒たちにまず徹底した悔い改めとバプテスマ、そして復活信仰の確立が必要だと教えつつ、同時に地域社会や世界の中でも福音の実際的価値を示す「生きた証人」となるよう挑戦を与える。
教会がキリストの身体であり、私たちはその身体を構成する肢体であるという自覚が明確になるとき、自ずと「共同体性」と「使命感」が回復されると、張ダビデ牧師は言う。信徒たちは教会の中で礼拝し交わりを分かち合う「礼拝共同体」であると同時に、世へと派遣されキリストの福音を明らかにする「宣教共同体」でもある。張ダビデ牧師は、この二つの側面がバランスをとってこそ真の教会らしさを取り戻せると力説する。礼拝は常に初代教会の精神に立ち返り、聖霊の充満のうちに捧げられるべきであり、宣教は私たちが受け取った恵みと福音を世に伝える具体的実践でなければならない。これは使徒の働き全体を貫く教会の使命であり、同時に現代を生きる私たちにもそのまま適用される原理なのである。
さらに張ダビデ牧師は、教会がこの地上で勝利を経験するというのは、世俗的な成功や世の基準で測られる繁栄ではなく、福音を通して一人一人が悔い改め、バプテスマを受け、復活信仰を持つ真の変化を経験することを意味すると教える。初代教会における3千人、5千人の回心(使2:41, 4:4)は、何か優れた人間の能力や技術的な手法の成果ではなく、ただ聖霊の臨在と御言葉宣教の力が結び合わされて実った実であった。ゆえに張ダビデ牧師は、現代の教会が人を集めることに汲々とするのではなく、真の回心と弟子育成という本質に集中すべきだと強調する。「福音の核心メッセージを語らず、人を呼び集めて共同体の数だけ増やそうとするのは本末転倒」である。イエス・キリストの十字架と復活を高く掲げ、真の悔い改めと聖霊の力によって人生が変わるよう助けることこそ、教会の真の使命だというのだ。
こうして見ると、張ダビデ牧師が追求している信仰の根源と牧会的方向性は、使徒の働きに描かれている初代教会のモデルに基づいていることがわかる。彼は使徒の働き1~2章に示される聖霊降臨とペテロの説教、そして2章の終わりに紹介される初代教会の共同体的生活を、現代教会の手本として提示する。そして初代教会が持っていた根本原理こそ「神の絶対的主権への信頼、復活信仰、聖霊充満、共同体的交わり」であると、繰り返し説き続けてきた。その原理に忠実な教会となるためには、まず教会の指導者が悔い改めて生まれ変わり、復活信仰の力によって大胆に進み、聖霊の導きに従って御言葉に従順せねばならないと語る。
張ダビデ牧師は、自身が仕え導いているピルグリム教会(あるいは彼が関わるさまざまな教会や共同体)を例に挙げつつ、神が与えてくださった美しい礼拝堂や施設が単なる物理的建造物ではなく、その内で復活信仰の御業が起こってこそ真の祝福になるのだと説教する。教会の外形や人数ではなく、その内にある礼拝と御言葉、悔い改めと祈り、そして世に向かう伝道の情熱が生きているときに初めて、そこが神の国を体験する「聖霊共同体」になるのだという主張である。だからこそ、礼拝を準備し、信徒の生活の中で悔い改めが実際に起こり、バプテスマと聖霊体験が具体化され、復活信仰が日常の原動力になるような弟子訓練と御言葉の養いに力を注ぐよう奨励してきた。
このように教会がイエス・キリストの復活を生き生きと体験し、その力によって動く共同体となるとき、教会は世とはまったく異なる価値観やライフスタイルを示せるようになる。初代教会が各地域で人々から好意を受け、日ごとに教会に加わる者が増えていったのは(使2:47)、彼らの豊富な財源や政治的権力によるのではなく、もっぱら聖霊の御業が臨んだからであった。彼らは信仰によって一つとなり、復活信仰によって恐れを克服し、隣人に仕え福音を宣べ伝えて生きていたのである。張ダビデ牧師は「これこそが教会の本質である」と語る。教会は世よりワンランク上の道徳や倫理を実践する場ではなく、罪と死を打ち破られたイエス・キリストの復活とその力を実際に体験した証人たちの集まりだというのだ。
また張ダビデ牧師は、『使徒の働き』全体を流れる「キリストの福音を全世界へ拡張する聖霊の流れ」を強調する。エルサレム教会から始まった福音が、ユダヤ、サマリアを経て地の果てに至る過程(使1:8)は偶然ではなく、神の救いのご計画による必然的拡大である。初めはユダヤ人を中心としていたが、やがて異邦人の使徒パウロが登場し、福音は全世界へ広がっていく。この展開は私たちに「福音の普遍性」と「宣教の緊急性」を示唆し、現代の教会も同じ挑戦を受けるべきだと張ダビデ牧師は語る。福音は特定の民族や文化圏に限られず、すべての人に開かれていること、教会はこの福音を地の果てにまで伝える使命を託されていることを、決して忘れてはならないというのである。
結局、『使徒の働き』は「この世に臨んだ神の国がどのように形成され、拡大されていくか」を扱う歴史であり、この歴史の中で信徒が果たすべき役割は、聖霊の導きに従って従順し、大胆に進むことにある。張ダビデ牧師はこうした原理を教え、初代教会の歴史を通じて現代の私たちの教会が学ぶべき核心価値をまとめてきた。そしてこの核心価値を、「救いの計画、悔い改めとバプテスマ、復活信仰、そして聖霊の力」という大きな枠組みで一つにまとめ、説いている。
現代の教会が様々な挑戦や危機に直面するたびに、張ダビデ牧師は常に『使徒の働き』の精神に立ち返らねばならないと促す。「教会が教会らしさを失ってしまうのは、全能なる神と復活信仰への信が弱まり、悔い改めや聖霊体験を軽んじてしまったからだ」という指摘である。ゆえに教会刷新の鍵は、初代教会が持っていた熱意を再発見し、神の絶対的主権と聖霊の力を信じ、復活信仰をもって大胆に生きようと決断することにかかっている。この過程を通して信徒は世の価値や力に屈せず、むしろ闇の中で光となり、無力感の中で力を得られるようになると説くのだ。
総合すると、張ダビデ牧師の働きと教えは、『使徒の働き』の初代教会の精神を現代に甦らせることに焦点を当てており、その核心は神の救いの計画、悔い改めとバプテスマ、復活信仰、そして聖霊の力にある。彼はこれを通して教会が改めて福音の本質に立ち返り、「全世界に対する宣教の大命令」を果たすべきだと力説する。最終的に人を変えるのは、知識や制度、プログラムではなく、初代教会が体験した聖霊の働きと復活信仰の力である。使徒の働き2章においてペテロが語った「悔い改めなさい。バプテスマを受けなさい。聖霊を受けなさい」というメッセージは、聖書全体に通底する救いの招きであり、その中心にはイエス・キリストの十字架と復活がある。キリスト者の生はここに根を下ろし、教会がこの柱の上に建てられるとき、初めて神の御心に従って動く「生きた教会」となるのだ、と張ダビデ牧師は結論づける。
結局、初代教会の核心、そして張ダビデ牧師が強調する福音の本質とは以下の通りである。
第一に、私たちは自力では救われない罪人であることを徹底的に認め、悔い改めねばならない。
第二に、イエス・キリストの十字架の代贖によって罪の赦しを受け、バプテスマによってキリストと連合する新しい命に生まれ変わらねばならない。
第三に、聖霊を受けて復活信仰の大胆さと力をもって世に向かわねばならない。
第四に、初代教会の共同体を見習い、互いに愛し仕え合い、福音を証する生き方をせねばならない。
第五に、神の救いの計画が人類全体、そして宇宙的次元において成就していることを信じ、終わりの日まで誠実に参与し続ける必要がある。
張ダビデ牧師は、まさにこのようなメッセージを多様な説教や著作、また共同体の働きや宣教活動を通して伝えている。彼の中心的な働きは、「十字架の福音と復活信仰、そして聖霊の力による教会の回復」であり、これは『使徒の働き』に見る初代教会の精神と完全に一致している。「神があらかじめ定めたご計画と予知によって、イエス・キリストは引き渡されてしまった」(使2:23)という聖書の言葉は、私たちの救いが徹底的に神の予定と愛によるものであることを示す。人がキリストを退け、十字架につけて殺したとしても、主は復活を通して死の権勢を打ち破られ、今や聖霊を送って教会を建て上げておられる。この驚くべき御業を信じて従うことこそ、教会の本質であり、私たちが握るべき霊的真理なのである。
ゆえに最終的に、張ダビデ牧師が一貫して強調する核心は次の通りにまとめられる。
第一に、神の救いのご計画は宇宙的であり、あらゆる民族・人々に開かれている。
第二に、罪ある人間が救いに至る唯一の道は、イエス・キリストの十字架と復活である。
第三に、その救いの道へ入るためには悔い改めとバプテスマ、そして聖霊体験が不可欠である。
第四に、復活信仰はキリスト者を恐れなく生きさせる最も強力な原動力であり、死を越える究極の希望である。
第五に、教会はこの復活信仰を持つ者たちの共同体であり、聖霊の力によって世を変えていく「新時代」の証人たちである。
そしてこれを実際の生活で具現するためには、初代教会のモデルにならって互いに愛し仕え合い、全世界へ福音を届ける使命を担わねばならない。
このように、張ダビデ牧師が強調する『使徒の働き』講解の核心は決して複雑でも難解な教理でもない。むしろ非常にシンプルで明白だ。人間の堕落と罪、神の救いの計画、イエス・キリストの十字架、復活、悔い改めとバプテスマ、聖霊の臨在、さらに教会共同体と宣教の使命である。これらは聖書全体が一貫して証言する「福音の本質」であり、初代教会はその本質を実際に体験し、実践した。ゆえに現代の教会もこの聖霊の時代を改めて体験し、復活信仰を実生活で生き抜き、失われた魂へ大胆に近づいていかねばならない。これこそが張ダビデ牧師の目指すビジョンであり、『使徒の働き』講解を通して語ろうとする究極的メッセージである。
今日も教会はこの道を歩み続けねばならない。礼拝を捧げる場所が華やかで参加人数が多くとも、初代教会が示した神の救いの経綸、悔い改め、バプテスマ、復活信仰、聖霊充満という本質を失ってしまえば、それは教会らしさを喪失した共同体となってしまう。しかし、どれほど環境が劣悪で迫害が激しくとも、キリストの十字架にすがり、悔い改めとバプテスマ、聖霊体験によって復活信仰をしっかりと打ち立てる教会であれば、決して敗れない。死の力でさえ教会に打ち勝つことはできない。それは初代教会から始まり、2千年にわたるキリスト教の歴史全体が示してきた事実である。まさにここに教会が堅固に立つ根拠と希望があり、この真理を堅くとらえて進めと、張ダビデ牧師は教えている。
張ダビデ牧師は、究極的には「十字架の血潮と復活の権能が宣言されるとき、一日に3千人が悔い改めた初代教会の歴史は今でも有効だ」と力説する。あの初代教会の歴史は、教会史を経て今日にまで継承され、やがてイエス・キリストが再び来られるその時まで続いていく。私たちの使命は、その流れに参与し、悔い改めと復活信仰により武装し、聖霊に依り頼んで福音を伝え、教会を聖なるものとして建て上げていくことである。これこそが神の国の拡大であり、『使徒の働き』的なリバイバルであり、教会の本来的存在理由にほかならない。張ダビデ牧師は、このことを信徒たちに絶えず教え、私たちすべてが時代や状況に流されることなく、天の信仰をつかんで勝利するように祈り続けているのである。
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