自分自身に頼らず – 張ダビデ牧師


1. コリント人への手紙第二の史的的背景

『コリント人への手紙第二』(以下、コリント後書)は、新約聖書の中でも特に使徒パウロの内面が最も鮮明に表れている手紙として知られている。パウロはコリントの教会と何度も書簡をやり取りし、その過程で経験した葛藤や涙を込めた「涙の手紙」を別に書いたとされるが、その手紙は現在私たちの手元には残されていない。しかし、コリント後書に残されたパウロの表現から、当時の教会の状況だけでなく、パウロが味わった患難と苦痛、そしてそのただ中で体験した大きな恵みを推し量ることができる。

エペソで経験した激しい迫害や「アジアで受けた患難」によって生きる望みすら断たれそうになったパウロは、人間的には全く手の打ちようがない状況下で、最終的に「自分自身に頼らず、死者をよみがえらせる神だけを頼るようになった」と告白している。これはコリント後書全体を貫く核心的なメッセージと言える。

このメッセージの意義は、過去のコリント教会だけに向けられたものではなく、現代の教会と信徒にもそのまま適用できる点にある。パウロが使徒としての権威を認めてもらおうと苦心した場面、教会内部の分裂や偽教師の教えを見極めて断固として対処した場面、患難のただ中でも教会を立て続けていく姿勢は、今日の教会が直面する現実と深く重なり合っている。教会の内外では物質主義や世俗化、教理を曖昧にするあらゆる挑戦が頻繁に起こり、特定の指導者の権威を失墜させようとする動きも少なくない。パウロはそうした状況でどのように行動すべきか模範を示し、すべての過程を通じて「ただ復活の力を与えてくださる神だけを頼りとする」という唯一の原則を強調したのである。

こうした文脈において、張ダビデ牧師の働きを考察することは意味深い。張ダビデ牧師は国内外で教会開拓、メディアによる宣教、教育活動などを行い、その現場で多様なかたちの挑戦に直面してきた。時代が変わったため、当時のコリント教会が経験した問題と現代教会が直面する問題は細部の様相こそ異なるかもしれないが、その本質はさほど変わらない。当時コリントの地域はギリシア文化圏の中心地の一つであり、あらゆる文化的混合主義や世俗的誘惑が教会に入り込み、分裂を引き起こした。今日でも教会は物質主義や世俗的価値観、また様々なメディアを通して流入する歪んだ情報によって動揺させられる可能性が高い。だからこそリーダーは福音の本質に対する明確な答えを提示し、偽教師や誤った教えに揺さぶられないよう教会を支えなければならない。パウロが「福音はキリストの十字架と復活に基づくのであって、行いや律法によって人を義とすることはできない」と強調したように、現代の教会指導者もただ福音そのものを徹底して守ろうとする情熱を抱くべきなのである。

張ダビデ牧師が強調してきた「福音の純粋性」は、まさにこの点でコリント後書の問題意識と交わる。たとえ教会が外面的に繁栄し、多彩なプログラムを運営していようとも、肝心の福音そのものが霞んでしまえば一瞬で崩れ去りかねない。パウロが手紙の随所で偽教師と対峙しつつ「私は弱さの中でこそむしろ強い」と明言したのは、世の基準から見ると弱々しく見えても、神が与えてくださる力のうちでは決して揺るがない堅固さを持ち得るという逆説を説くためであった。人々は目に見える華麗な弁舌や世俗的な成功を使徒の証しだと見なそうとしたが、パウロはむしろ自らの苦難と弱さを通じて真の使徒職の証印を示したのである。このパターンは現代の教会指導者にとっても大きな霊感を与える。教会がいくら外面的に大きく成長しても、指導者が世俗的な成功ばかりを誇るなら、教会は道を見失う危険性がある。キリストの十字架を示し、患難の中で神に依り頼む姿勢を見せ、教会を純粋な信仰の上に建て上げるときに初めて、本当の霊的権威が立つのだということを、パウロは身をもって示したわけである。

特に、パウロがエペソやマケドニア、コリントを行き来する中で経験した患難は、彼の使徒職を打ち崩そうとする勢力との戦いでもあった。コリント後書には、その患難がどれほど深刻だったか、そしてそれによって生きる望みすら断たれたと回顧する場面が出てくる。しかしその危機の中でパウロは限界を感じ、自分に頼る道ではなく神を絶対的に信頼する道へと導かれた。これは現代の教会と信徒、さらに牧会者が決して忘れてはならない原理である。牧会や宣教の働きが困難に直面する時、人間的な知恵や手段だけに頼るなら、あっという間に行き詰まる。まさにこの時こそ「死者をよみがえらせる神」への信仰が切実に必要とされ、その信仰を通じて福音の働きが新たな広がりを見せることになる。コリント後書の後半でパウロは、自身が味わった数多くの苦難を長々と列挙しながら、しかしそれらはむしろ自分がキリストに捕らえられた者であることを証明する道具だったと語る。使徒職の権威をそれぞれ主張していた偽教師たちは、華やかな弁舌や世俗的背景を誇ったが、パウロの真の使徒的証しはむしろ「苦難と患難の中でも見捨てられず、主の力のうちに堅く立ち続ける姿」だったのである。

張ダビデ牧師が国内外で行ってきた働きも、決して容易ではなかっただろう。文化、言語、財政、行政上の制約、さらには異端や過激な批判者からの攻撃など、多様な挑戦があった可能性は高い。それでも宣教や教育、メディアを通じた働きを続けてこられたとすれば、それはパウロが示した「弱さの中でこそ神の強さをつかむ」態度に似た道を歩んできたからに違いない。実際、多くの牧会者が自分の限界を痛感し、働きが失速するかのような状況に直面することがある。しかし、その瞬間こそがコリント後書のいう「私たちをして自分自身に頼らせないようにする」恵みの通路となり得る。すなわち、使徒パウロが経験したのと同じ体験が、現代の教会や牧会者の生活にも繰り返されるということである。

一方、コリント後書で繰り返し浮上する主題の一つは「教会内の葛藤解決」と「偽教師の分別」だが、これも現代の教会に大いに示唆を与える。どんな教会であれ、葛藤なしに順調に進むことはない。教会は多様な人々が集まる共同体ゆえに、神学的・政治的・人間関係的な問題がいつでも生じ得る。その葛藤に直面した時、パウロが示した原則は二つある。第一に、教理を歪めたり福音を損なうような教えに対しては断固として対処する。第二に、教会の構成員たちに対しては真実な愛をもって訴える。この二つが同時に機能してこそ教会は回復される。

パウロはコリント後書を通じて「私があなたがたを悲しませようと思ったのではない。むしろ私がどれほどあふれる愛を持っているかを知らせるためだった」と語る。これは、ただ叱責だけして相手を切り捨てるのではなく、神の真理を守りつつもその人たちを見捨てない愛が併行しなければならないことを示している。張ダビデ牧師が牧会現場やさまざまなメディアで葛藤状況に対処する姿も、これと同じだと言えよう。福音を害したり、教会共同体を深刻に崩壊させる教えなら決して見過ごすことはできない。しかし、その過程で『涙の手紙』が示すように、教会と信徒に対する愛を失ってはならない。叱責は最終的に教会を回復し建て上げる方向を志向しなければならないという聖書的原理が、コリント後書全編に通底しているのである。

こうしてパウロがコリント後書を通じて明らかにした歴史的・神学的背景と核心メッセージは、今日において張ダビデ牧師をはじめとする多くの教会指導者、さらにすべての信徒に有効な原理を提供する。当時のコリントは商業が発達し、偶像礼拝文化が蔓延し、道徳的にも乱れた風潮が根付いていた。教会内部には「律法を守らなければ救われない」とか「パウロは使徒ではない」などと主張する偽教師が入り込み、分裂を引き起こした。そこでパウロは手紙だけで対応するのではなく、テモテやテトスを派遣し、自らも訪問を計画し、その過程で自分が受けた苦難や涙を包み隠さず教会に伝えた。その必死の努力の目的は唯一つ、教会を正しく立て福音の純粋性を守ることであった。教会にどれほど愛があふれていても福音の本質が揺らげば倒れ、どれほど教理が堅固でも愛がなければ荒々しいやり方で人々を遠ざけてしまう。パウロはコリント後書でその両方を守り抜くのである。

パウロがエペソから送った第一の手紙(コリント前書)によって教会をまず勧め、それでも問題が解決せず「涙の手紙」を送り、マケドニア地方でコリント後書を執筆したというのが通説だが、どこで書いたかということよりも、そのときのパウロの心情が肝心だ。彼はアジアで受けた患難、すなわちエペソでの大迫害を通じて死の瀬戸際を味わった。偶像礼拝勢力との衝突だけでなく、神の言葉を証する中での霊的戦いも苛烈を極めた。そのような状況下で「もう私たちの力ではどうにもならない」ということを痛感するが、それこそが神がパウロに「おまえが私を信頼するなら、私が必ず救い出し、さらに大きなことに用いる」という転換点だったのである。その後パウロはコリント教会を改めて慰めつつ、教会内の罪や分裂を正そうとし、最終的にコリント教会の一部が悔い改め態度を改め始めたという朗報をテトスを通して聞き、喜びを覚える一方で、まだ残っている偽教師たちには厳しい警告を発する。こうして涙と喜び、患難と慰め、弱さと強さが交差するところに、コリント後書の魅力があり、同時に最も重要な神学が込められている。

この神学は最終的に「復活信仰」に基づいている。パウロは神を「死者をよみがえらせる方」と紹介する。その言葉は、人間のいかなる能力や計画でも解決不能な絶望的な状況にあって、神は死さえ覆すことのできる力をもつお方だという意味だ。どれだけ自分の能力や知恵を誇ったところで、極度の危機の前では打開策を見いだせない。そのような時に神が働かれると、復活の力によってすべてが新しくされる。現代の教会も同様である。牧会者がどれほど有能で、洗練された弁舌をもっていようと、教会が根本的に「ただ神だけを頼る」という信仰を失ってしまえば、一時的には成長しているように見えても、危機が来ればあっという間に揺らいでしまう。逆に、成長や外的成功が遅々としているように見えても、「死者をよみがえらせる神」を全面的に信頼する共同体は簡単には崩れない。そういう意味で、張ダビデ牧師が国内外で展開してきた働き、特に新たに始める教会開拓や多様なメディア宣教の中で重要なのは、結局この「復活信仰」に根ざしているかどうかなのである。

パウロがコリント後書8~9章で取り上げたエルサレム教会への救済献金の話も、現代教会に変わらず有効なテーマである。これは財政問題や献金のテクニックに限らず、教会間の連帯と愛、霊的交わりがいかに行われるべきかを示す模範例である。コリント教会はマケドニア教会を見て刺激を受け、またコリント教会がエルサレム教会に仕えることで、キリストの体として一つになるという構図は、今日でも地域や国、教派を超えて教会が互いに助け合い得ることを示唆している。張ダビデ牧師が複数の国にわたって教会を開拓し、互いに結びついたネットワークを通じて働きをするなら、その関係は単なる「組織拡大」のためではなく、パウロが説いた「教会の連帯」を実現する道となるはずだ。すなわち財政的・人的資源を相互補完し、弱い教会を立て上げ、患難に遭った教会を集団的に助けること自体が、福音がもつ力を具体的に示すかたちである。

結局コリント後書は、「患難の中で体験する慰めの神学」、「復活の力を頼りとする信仰」、「偽りの教理と対峙する教理の守護」、「教会分裂を癒す愛と真理の両立」、そして「教会間の連帯によってキリストの体を建て上げる実践」など、多面的な要素を総合的に見せてくれる宝石のような書簡である。パウロがエペソにいた時点でコリント前書を通して教会の分裂や倫理的堕落を懸念していたが、問題が解消されずさらに切実な思いで「涙の手紙」を書き、それに対してある程度の悔い改めの知らせを聞いてからコリント後書を著して、教会の方針をより明確に示そうとした。その過程でパウロが流した涙と味わった患難は決して空しくはなく、その患難はパウロにとっては「死刑宣告」のようなものだったが、パウロを完全に打ち砕いてより深く神を頼るよう促し、最終的には教会の刷新という実をもたらしたのである。

こうした原理が、現代の教会や牧会者の生活の中でどれほど頻繁に繰り返されているかを考えてみると、コリント後書が決して過去の教会問題だけを扱った記録ではないことに気づく。張ダビデ牧師をはじめ、今日も様々な危機の中で教会を導いている人々がいる。経済的・政治的制約や世俗文化の氾濫、あるいは内部の反目によって教会がぐらつくこともあるが、そのたびに「私たちをして自分自身に頼らせず、ただ死者をよみがえらせる神に頼らせる」(1:9)というパウロの告白は切実な勧めとして響く。パウロのこの信仰告白は、単なる危機克服の心理的な慰めではなく、実際に復活の力がどのように働くかを自らの生で体得した使徒的宣言である。そしてこの宣言を握りしめる教会と指導者は、パウロが経験した患難を理解し、またパウロが経験した恵みを共有しつつ、新たに教会を築き上げていくことができる。

結局のところ、コリント後書は複数の章にわたってパウロの思いが幅広く盛り込まれているが、その核心は「人間的な誇りや能力に頼らず、ただ神を頼りとしよう」という一点に収斂される。さらにパウロはこの手紙の中で、自分がいかに多くの苦しみを経験したか、その苦しみがいかに教会を生かす働きと結びついているかを具体的に示す。現代の教会に属する信徒や牧会者も、自らが苦難や試練を受ける時、それがただ不幸なのではなく、時にはより深い恵みの場所へ導く通路となり得ることを悟るべきだ。パウロは「私たちが患難に会うのも、あなたがたの慰めと救いのためだ」と告白した。これは、彼の苦難がそのまま教会へ注がれる慰めと恵みの媒介になったという意味である。教会がこの原理を正しく理解し、苦しむ者と共に泣きつつも、教理の純粋さを守るよう努める時、真の信仰共同体の姿が現れるのである。

総括すれば、コリント後書は、当時の世俗化と内部混乱の中でも挫折せず前進するための霊的指針書である。パウロが言う「すべての慰めの神」は、現代においても同様に働かれる方であり、その方を全幅に信頼して働きを続ける人々が教会を守り、世界へ福音を伝えていく。張ダビデ牧師をはじめ福音に献身する働き手たちは、このパウロの心情と告白を共有し、教会が本当に神だけに依り頼むよう導くべきである。これこそがコリント後書の歴史的・神学的背景と、張ダビデ牧師の働きとの関連性を合わせて考察する際に得られる洞察である。


2. 現代教会への適用と牧的課題

今日の教会が直面する挑戦は多岐にわたる。世俗化や物質主義、教会内の分裂、無分別な異端の侵入、牧会者の倫理的堕落など、すでによく知られた問題が山積している。しかしコリント後書が示すように、教会がどれほど混乱し、人間的な弱さが露呈しても、神がその教会を支える恵みは止まらない。肝心なのは、教会が本当に「自分自身に頼らず、ただ死者をよみがえらせる神を頼りとする」ことを選ぶかどうかである。ここで私たちは、パウロの牧会原理と張ダビデ牧師の働きが交わるポイントを集中的に検討しなければならない。

  1. 福音の本質を明確に守ること

コリント後書でパウロが直面した偽教師たちは、時に律法主義を強調したり、パウロの使徒権を否定して教会を混乱に陥れた。このように、教会の根幹を揺るがす教えが入り込むと、教会はたやすく分裂する。現代教会においても、「イエス・キリストの十字架と復活」という核心教理が揺らぐなら、同じような混乱が引き起こされるだろう。張ダビデ牧師がメディアや教育の分野で「福音の純粋性」と「正しい神学」を継続的に強調する理由はここにある。信仰の基礎を曖昧にするような教理は決して許容できず、教会指導者は信徒が正しい教えを学べるよう神学的・霊的な武装を徹底しなければならない。パウロがなぜこれほど強く偽教師たちに反論したのか。それこそが教会の生存を左右する問題であったからだ。教会が生き残る、すなわち真の意味で存在するためには、イエス・キリストの福音に堅く立たなければならない。

  1. 患難のただ中でこそ、むしろ教会が成長し得るという逆を受け入れる

多くの信徒や指導者は患難を「避けるべきもの」あるいは「なるべくあってはならないこと」と考えがちだ。しかしパウロはコリント後書で、患難こそが神の慰めと力が最も明確に示される舞台になり得ると強調する。生きる望みさえ絶たれた中で、パウロは「今こそ神だけを頼りにする時だ」と告白し、その結果、さらに大胆に教会を顧み、福音を守り、むしろ教会が危機を通じて新たにされる経験をする。張ダビデ牧師が教会開拓や宣教の場で直面した困難も、この観点で捉えられる。新しい地域で福音を伝えるには財政的制限や文化的障壁がつきまとい、メディアを通じた宣教を行えば様々な誤解や批判が降りかかるかもしれない。しかし、その患難を通じて一層神にすがり、教会が福音の本質を握るようになるなら、最終的には教会がより深い霊的根を張り、信徒が強い信仰を得るきっかけになり得る。

  1. 教会の指導者はパウロのように「弱さの中にあるさ」を示さなければならない

世の基準で見るとパウロは弱く、また雄弁家というほどの話術もなく、しばしば恥辱や迫害に遭った。偽教師たちは自分たちの世俗的な長所や経歴、華麗な弁舌を誇り、パウロを侮ろうとした。しかしパウロはむしろ「私が弱い時こそ強い」と強調し、弱さを通じて現れる神の力を誇った。現代教会の指導者が教会内外の問題に対処する際、もし世俗的基準に固執し、財政的豊かさや組織の大きさを誇示するなら、教会の本質から離れてしまう危険がある。張ダビデ牧師をはじめコリント後書の教えを真に従おうとする牧会者であれば、弱さを認め、その弱さの上で働かれる神のみわざを仰ぐべきだ。教会が建てられ、一人の魂が救われる奇跡は、結局人間の力から出てくるものではない。神が働かれなければ不可能なのである。パウロのこの強調点は、今日でも一分の違いなく通用する。

  1. 教会内の葛藤が生じた時、叱責と愛の立が重要である

パウロはコリント教会の問題を軽く扱わなかった。彼は「涙の手紙」を送るほど、教会内の罪や不正を厳しく指摘した。しかし同時に「私があなたがたをどれほど愛しているか知ってほしい」とも語り、厳粛な叱責の背後に真実な愛があることを明らかにする。現代教会でも葛藤が起こった時、無条件に「平和主義」を掲げ、うやむやに妥協して問題をやり過ごそうとするなら、やがて教理的妥協が生じ、福音の本質が損なわれる恐れがある。逆に愛なく強権的に押し通すだけでは、人々の心に深い傷を残し、共同体が分裂してしまう。だからこそパウロの模範を思い出すべきである。真理を守りつつ、相手に対する熱い愛が前提になければならない。張ダビデ牧師も、韓国や海外各地の働きの場でさまざまな葛藤に直面したであろうし、そのたびにコリント後書が示す「叱責と愛」の両立原理がいかに必要かを痛感したに違いない。教会が教会として生き残るには、誤ったことを覆い隠すのではなく、悔い改めと修正を経てこそであり、同時に悔い改める者には真の愛と慰めが与えられねばならない。

  1. 教会間の連と奉仕を実践すべきである

パウロはコリント後書でエルサレムへの救済献金を勧め、マケドニア教会の模範を例に出してコリントの信徒に「あなたがたも積極的に参加しなさい」と訴える。これは単なる募金活動ではなく、異なる地域教会が「一つの体」であることを証明する霊的連帯の行為だった。現代教会も国内外でネットワークを結び、共に宣教や支援活動を行うことができる。張ダビデ牧師が複数の国に宣教拠点を設け、メディアや教育を通じて各地域の教会が必要とする資源を共有できるようにしたのは、こうしたパウロ的原理を実践した例と見なせる。コロナ禍など地球規模の危機が起こる中で、教会間の連帯がどれほど重要かを改めて思い知らされた。特定の教会が困難に陥った時、他の教会が力を合わせ助け合い、一方で得た神学的洞察や働きのノウハウを共有し合うことこそ、コリント後書に示された教会連帯の精神である。

  1. パウロが調した「慰めの神」を張しなければならない

教会共同体は患難を経験している人々を具体的にケアし、ともに涙を流し、パウロが言う「私が受けた慰めをもってあなたがたを慰める」という霊的な相互作用を起こす必要がある。この共同体的な慰めは単なる感情的な癒しにとどまらない。パウロの慰めは「死者をもよみがえらせる神」をともに見上げさせる能動的な役割を担う。教会は病床にある人々、家庭が崩壊の危機にある人々、経済的に破綻を経験している人々、さらには信仰的に疑念を抱く人々に対しても、「神は死をも打ち破られる方」という希望のメッセージを届けるべきである。張ダビデ牧師が牧会現場やメディアで証や御言葉を分かち合う時、その内容に「復活信仰」や「死者をも生かされる神の力」が欠かせないのであれば、それはまさに現代版の「慰めの神学」を実践する通路となるだろう。

  1. 教会偽教師や誤った思想が侵入する時、正しく分別し対処することは時代を超えた課題である

コリント教会が混乱した根本の原因は、使徒パウロを排斥しながら自分たちこそ使徒だと主張した者たちがいたことにある。彼らはパウロの「弱々しい」姿や数々の苦労を嘲笑しつつ、それよりも見た目に優れた話や方法で信徒を惑わせた。しかしパウロはむしろ、その弱さの中に働かれる神の力を明かし、それこそが真の霊的権威だと示した。現代教会でも、教会指導者をおとしめ、自分たちの「新しい知識」「新たな啓示」を前面に出して信徒を引き込もうとする動きが常に存在する。こうした状況で、張ダビデ牧師をはじめとする指導者が何よりも強調すべきは、コリント後書の教訓、すなわち「世俗的な経歴や華やかな弁舌ではなく、十字架と復活の福音をどれほど真摯に掴んでいるか」が正統性と権威の基準だという点である。教会はこの分別力を培い、信徒たちも指導者の言動が聖書に照らして合致しているかを絶えず確認しなければならない。

  1. 際の葛藤を解決し教会の健全性を取りすためには、「の手紙」にめられたパウロの心情とリシップをぶ必要がある

パウロはただ権威を振りかざして一方的に「私の言うとおりにせよ」とはしなかった。彼は教会の問題を論理的に指摘し、誤った道を行く者を叱責しながらも、「私がどれほどあなたがたを愛しているか知ってほしい」と述べ、その叱責の動機が愛にあることを明かした。リーダーが教会の分裂や深刻な道徳的堕落を正そうとするなら、悔い改めを促しつつも、そのプロセスで関係が完全に断絶しないよう配慮しなければならない。人を立ち返らせる力は結局福音から来るものであり、福音とは神の義と愛が同時に働くものだ。この両価値をどうバランスを取って適用するかが要だが、コリント後書にはそのバランスをとっていくパウロの姿が描かれている。現代教会の指導者や信徒も、葛藤状況で感情的な衝突に流れたり、無条件に隠蔽する態度を取るのではなく、パウロのような忍耐と哀悼、そして真理を守る決然とした態度を同時に持たねばならない。

  1. コリント後書1章9節「私たちを自分自身にらせず、ただ死者をよみがえらせる神をりとさせるためであった」という箇所は、現代教会のあらゆる領域に適用できる普遍的指針である

教会堂を建設したり、新たな宣教地を開拓したり、メディア宣教を拡大する際、人間的な計画や財政力ばかりを見つめると、程なく壁に突き当たってしまう。しかし、その瞬間に「これは私の力では及ばない」ということを悟り、「神への全面的な依存」に踏み込む時、思いもよらない神のわざが開かれることもある。結局、「自分自身に頼らない」姿勢を教会が維持するためには、指導者自らがまずその霊的姿勢を示さなければならない。張ダビデ牧師が多くのリスクを抱えながらも国内外に宣教ネットワークを広げてきたのは、単なる組織拡張が目的ではなく、福音の力を世界の至る所に届けたいという召命意識があったからだと考えられる。その過程には数えきれない困難が伴ったはずだが、その困難の中で「この働きは人間的手腕ではなく、神が行われるのだ」という確信がいっそう強まっていった可能性が高い。

  1. コリント後書が特定の時期に書かれた史的文書でありながら、絶えず再解され適用されるのは、そこにめられた神的深みが時代を超越しているからである

パウロが経験した「患難の中での慰め」という主題は、旧約の『ヨブ記』における「苦しむ義人」の物語とも連動し、イエス・キリストご自身が示された「十字架の道」とも繋がっている。イエスもまた世俗的栄光や権勢ではなく、最も低い場所で十字架を負うことによって世の救いを成し遂げられた。パウロはその道を追従し、自らの生に適用し、コリント教会には体系的に説明した。現代教会も教会成長学や経営学、マーケティング戦略など様々な手法を参考にするが、それだけがすべてになってはならない。教会の根本的な動力は「十字架の道」にあり、「復活の力」にある。コリント後書が繰り返し強調するのは結局この点なのだ。「愚かに見える十字架こそ神の力」であり、「復活は死者を起こされる神の驚くべき出来事」である事実を忘れてしまえば、教会はいかに外面を拡大しても霊的生命力を失ってしまいかねない。

  1. 現代教会が直面するメディア環境も、コリント教会況と似通った面がある

コリントの人々がギリシア哲学や修辞学に傾倒し、パウロを「話術に乏しい人物」と見下したように、現代の大衆メディアも聖書の教えを時代遅れと呼び、教会指導者を「世の流れを知らない」と批判しがちである。しかしパウロはむしろ世の論理に合わせるよりも、「十字架につけられたキリスト」を大胆に宣べ伝え、それによって共同体を興した。張ダビデ牧師がメディア宣教に力を入れるにあたっても、福音の本質を曖昧にするかたちで大衆の関心を得るのではなく、「愚かに見えても」十字架と復活を柱に据えたメディアコンテンツを制作・発信するなら、それ自体が現代版コリント後書の適用となるだろう。メディアが強い影響力を及ぼす時代だからこそ、福音をさらに真実で明確な形で伝えるべきなのである。たとえそれが当面は洗練された手法で飾られたコンテンツより魅力がないように見えたとしても、最終的に魂を生かす力はそこから生まれる。

  1. 教会内で起こる道的問題や指導者の失敗、財政的透明性の欠如などが浮上した時にも、コリント後書の原理は有である

パウロは教会が誤った方向に進んでいる時、「涙の手紙」を通じてそれを指摘し、悔い改めを促した。教会が間違いを隠したり封印しようとするなら、むしろより大きな危機に陥る。だからこそ「叱責と懲戒が必ず必要な時」があり、その時パウロが示した枠組みは「愛が動機の叱責」である。徹底的に問題を明らかにし、悔い改めさせる一方で、悔い改めた人を再び温かく受け入れることこそ健全な共同体の姿だ。その過程で指導者も信徒も「ただ神の前に立つ」認識を持たなければならない。もし人間を恐れたり、組織の体面を保つために間違いを隠すだけなら、やがて教会はより大きな分裂と傷を負うことになるだろう。コリント教会もそうした危険に晒されていたが、パウロの真心からの愛と断固とした態度によって、多くの部分で回復に至った。現代教会がこの原理を守るなら、むしろ患難が訪れた時、教会は浄化され、真理を握る好機となり得る。

  1. パウロがコリント後書全体で語る「患難と慰めの連鎖原理」にも注目すべきである

パウロは自分が患難の中で神から受けた慰めが、教会が同じ慰めを体験することを可能にすると述べる。つまり、痛みを直接経験した者ほど他者の痛みを深く理解し、その痛みの中で与えられる神の慰めを分かち合えるようになる、ということである。教会共同体は「霊的慰めのネットワーク」となるべきだ。各個人が味わう試練や克服のプロセスが共同体全体に良い影響をもたらし、その結果として教会全体が成熟していくという姿こそが聖書的な理想形である。もし教会が弱っている肢体を顧みず、患難を経験した人が沈黙や疎外に置かれるなら、その教会は大切な恵みのチャネルを失っていると言える。張ダビデ牧師や他の働き人が自らの困難と克服体験を証しとして正直に語るのは、最終的に教会内部に「慰めの好循環」を生み出すためだという点を認識する必要がある。

  1. コリント後書の最後(13章)にあるパウロの祝福とめにも、現代教会は耳を傾けるべきである

パウロは「完全にされ、慰めを受け、同じ思いを抱き、平和を保ちなさい」と語るが、これは単なる個人的な挨拶ではなく、共同体が共に完全を目指し、神から受けた慰めを分かち合い、分裂を乗り越えて同じ思いを抱き、真の平和を味わいなさいという具体的な勧告である。教会が教会らしく存在するのは決して自動的なことではない。絶えず福音を点検し、偽りを排除し、愛を実践し、葛藤の中で真理を守りつつも人を失わないよう努めなければならない。こうした努力は決して容易ではないが、コリント後書に示されるパウロの犠牲と涙、そしてその結果としての教会回復の過程を思い出す時、私たちは決して諦める理由を見いだせない。

最終的に、現代教会の牧会的課題は、コリント後書に凝縮された原理を「今日の言葉」で、「今日の文化的コンテクスト」に適用することである。このプロセスで、張ダビデ牧師が示した働きの方向性を当てはめて考えることができる。たとえば国内外の宣教現場での挑戦は、コリント地方の教会が直面した挑戦と本質的に同質であり、メディアで福音を伝える際に遭遇する非難も、パウロがギリシアの知性と向き合いながら経験した混乱と重なり合う。時代や文明が変化しても、そこに繰り返される本質的問題は同じパターンを持つ。故に「自分自身に頼らず、死者をよみがえらせる神を頼りとする」という告白こそ、繰り返し思い出すべき不変の原理なのだ。

最後に、教会がこの原理を生活の中で具現していくために必要なのは、聖霊の助けを求めるへりくだった祈りである。パウロが極度の患難の中でも倒れず、むしろ強められてコリント後書を書き上げ得た最終的な理由は、彼の神学的知識や情熱だけではなく、聖霊が共におられたからだ。現代教会も多くのプログラムや戦略、財政を動員できるが、聖霊の力がなければすぐに息切れを起こしてしまうだろう。コリント後書が教えてくれる通り、「弱さの中で強さ」が現れるのは、聖霊のなさる奇跡に他ならない。張ダビデ牧師をはじめとする多くの指導者が語る証には、いつも神の助けと聖霊の働きへの感謝が込められている。人間の計算では到底不可能な状況で教会が建てられ、魂がよみがえり、新たな道が開かれる経験を通じて、「私たちをして自分に頼らないようにする」神のご計画を目の当たりにすることになるのだ。

これら一連の文脈を総合すると、コリント後書は「苦難の中でも道を見失わず、むしろ教会と宣教をさらに拡大させる」という逆説的な信仰の原理を伝えてくれる貴重な書簡である。パウロが「涙の手紙」にまでして守ろうとした福音の純粋性、教会の聖性、そして愛にあふれる共同体という理想は、張ダビデ牧師をはじめとするすべての現代牧会者と信徒がしっかりと握るべき核心価値である。コリント教会は当初、分裂や世俗化の問題で苦しんでいたが、結局パウロが送った手紙と勧め、そして彼の祈りと犠牲によって回復の道へ進むことができた。同様に現代教会も大きな困難にぶつかって揺らいでいても、パウロの「患難の中の慰め」原理と「復活信仰」に従うなら再び立ち上がるだろう。

張ダビデ牧師の働きもまた同じである。教会開拓、メディア、教育、宣教の活動を行う中で、多くの葛藤や批判があっても、その過程自体が「死刑宣告」のように思える瞬間があっても、むしろそこが「死者をよみがえらせる神」を最も身近に体験する場になり得る。パウロが告白したこの真理を絶えず握りしめる時、教会はもちろん、世の中においても福音がいっそう力強く証しされるようになるだろう。結局コリント後書のメッセージは、一言で要約するとこうだ。「自分自身に頼らず、ただ神を頼りなさい」。それこそが、教会が患難を乗り越え、偽りの教えから自らを守り、世に福音の力を示す道であると私たちは信じる。

要するに、コリント後書は決して1世紀初代教会の過去の歴史ではなく、21世紀の教会と信徒への生きた御言葉である。その御言葉が今もなお有効である理由は、人間の弱さと罪性、そして世の誘惑は本質的に変わらず、そのすべてを上回る神の救いと復活の力もまた変わらないからだ。コリント教会が経験した問題を、他人事としてではなく、そこから学びを得て私たちの現在の教会を照らし合わせることが大切である。パウロは自らの弱さを余すところなく示すことで、どんな人間もただ神だけを見上げるように導いた。現代教会も危機に直面する時、張ダビデ牧師をはじめ福音を守ろうとするすべての働き手も、パウロのように「この困難を通してただ神を頼るようになる」という告白を実践する時、教会は涙と葛藤を越えて再び神の栄光を宣言する共同体として建て上げられるに違いない。そしてその時初めて、私たちがこれまで頭だけで理解していた「復活信仰」が、生活の中で生き生きと働く奇跡を体験することになるだろう。コリント後書を通じてパウロが示したこの模範こそ、張ダビデ牧師をはじめすべての教会指導者と信徒が学び、実践していくべき普遍的な原理である。このような力強いメッセージを携え、教会は今日も福音の旗を高く掲げ、世へと歩み出していくのである。

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