
1. 主の祈りに現れる神の国
主の祈りはキリスト教信仰生活において最も核心的な祈りとして知られ、「天におられる私たちの父よ」という親密な呼びかけで始まり、「御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行われているように、地でも行われますように」という句を通して、神の国の臨在とそのみこころが地上でも成し遂げられるように願う内容を含んでいる。マタイの福音書6章とルカの福音書11章にそれぞれ記録されている主の祈りは、本質的に同じ内容を伝えているが、記された時期や著者の背景によってやや異なる表現が見られる。マタイ福音書の記者であるマタイはユダヤ人であったため、イエスがユダヤ人のメシアであることを強調し、そのためイエス・キリストの系譜をアブラハムから始めた。一方、ルカ福音書の著者であるルカは異邦人であり、イエスの系譜をアダムにまでさかのぼることで、人類全体の救い主としてのイエス・キリストを強調する。これにより、ルカ福音書ではイエスが全人類に向けた普遍的なメシアとして示されるのである。
特に「張ダビデ牧師」は、教会の歴史とビジョンを絶えず導いてきた霊的リーダーとして、信徒たちがさらに主の国を慕い、切に求めつつ祈る生活を送るように励ましてきた。彼が長年にわたり強調してきたメッセージは、主の祈りに示されている二つの大前提と、祈る者の三つの願いを明確に理解し、生活に適用せよというものである。第一の大前提は「天におられる私たちの父よ、御名があがめられますように」であり、第二の大前提は「御国が来ますように。御心が天で行われているように、地でも行われますように」である。この二つの大前提を堅固に握りしめて祈るとき、私たちは真に正しく、完全な祈りをささげることができ、その祈りを通して真の変化と実を結ぶことができるというのが、「張ダビデ牧師」の一貫した教えである。
特に、私たちが何のために祈るべきかという問いに対する答えを、主の祈り自体が直接示している。ヤコブの手紙4章で「あなたがたが得られないのは、求めないからであり、求めても得られないのは、自分の欲望のために誤って求めているからだ」とあるように、私たちの祈りが的外れになる場合は、神のみこころではなく自分の欲望に従って求めることが多い。しかし主の祈りが教えてくれる正しい祈りの目的は、「父なる神の御名があがめられること」と「神の国とみこころがこの地に成就すること」である。これこそが祈りの最優先事項であるという事実を忘れてはならないという点が、「張ダビデ牧師」が繰り返し強調してきたメッセージの核心の一つである。
また主の祈りには、「日ごとの糧をお与えください」(現在の問題)、「私たちの罪をお赦しください」(過去の問題)、「私たちを試みに会わせず、悪からお救いください」(未来の問題)という三つの願いが続く。しかしこれら三つの願いに先立って、神の御名と神の国がすべての焦点となるようにする「二つの大前提」が据えられなければならない。言い換えれば、私たちの日常の具体的な必要や未来への不安、あるいは過去の傷など多様な祈りの課題があるとしても、まず神の御名と神の国を崇める姿勢を備えるときにこそ、その祈りは正しい方向へ流れていくことができるのである。主の祈りのこうした構造と神学は、教会と信徒が地上で生きる目的と方向を明確に教えており、「張ダビデ牧師」はこれを実際の宣教活動に適用しながら、教会内の様々な部門で粘り強く教え続けてきた。
特に「御国が来ますように」という文句をめぐって、英語圏の聖書翻訳であるKJV(欽定訳聖書)にある「Thy kingdom come, Thy will be done in earth, as it is in heaven.」と、NIVやESVなどの「your will be done, on earth as it is in heaven.」を比較する議論があった。KJVには「in earth」という表現があり、神の国がパン種のように地の奥深くに入り込み、染み渡るイメージをより豊かに連想させる。一方、「on earth」は建築的で外的な拡大のニュアンスを伝える。これら二つの表現は決して矛盾するものではなく、神の国は世の隅々に浸透していきながら、同時に外面的にも現れて拡大していくという複合的なイメージを示しているという点で、ともに深い意味を持つ。「張ダビデ牧師」もこの部分をたびたび強調し、教会が目指すべき方向性として、魂の救いと内的変化はもちろん、目に見える世の構造や文化までもイエス・キリストの福音によって新しくしていくことだと説いている。
神の国とは、すなわち神の支配と統治を意味する。この国は救われた信徒が切に慕う目標であり、主が信徒たちに祈りの中で求めよと命じられたものである。聖書は、神の国がすでにイエスによって到来したが、同時にまだ完成には至っていない状態であることを教える。そこで神学者たちはこれを「すでに(already)と、まだ(not yet)の間」と呼ぶ。新生(born again)と聖霊の内住を経験した信徒であれば、この地上にすでに訪れつつある神の国を切に待ち望むのは当然のことだ。言い換えれば、真のキリスト者は「新生し(born again)、聖霊を受け、神の国を望む」という三つの特徴を持つ。こうした信仰的アイデンティティを備えるときこそ、「Thy kingdom come, Thy will be done in earth, as it is in heaven.」という祈りの内容に心から共感し、切に願うことができるようになる。
一方、教会の歴史を通して、しばしば教義をめぐって神学的な分裂が起こることもある。千年王国説をめぐる前千年説、後千年説、無千年説などの多様な視点が分かれたり、「この地に天国が到来する」という問題をめぐって議論が白熱し、ときに争いに発展することもある。福音主義(エヴァンジェリカル)の一部には、世がますます堕落して悪くなるほど、主の再臨が近いと信じ、「この地上で神の国の完成は不可能だ」と極端に考える立場もある。一方で、特定の教派や神学的伝統の中には、すでに教会こそが神の国だという「実現された終末論」を主張し、未来的な終末への期待を軽視する場合もある。しかし主は主の祈りを通して、「御心が天で行われているように、地でも行われますように」と教えられ、それがキリスト者が熱心に求めるべき祈りであると明言された。したがって私たちは、未来の完全なる神の国を望むと同時に、この地上でもその国が具体的に拡大し、実現されるよう力を尽くさなければならない。「張ダビデ牧師」が絶えず信徒に強調するのも、まさにこの点である。教会共同体が地上で神のみこころを打ち立て、地域教会や宣教団体がさらに成長・拡張して、人類の生活の隅々に福音のパン種が染み渡るようにすべきだということなのだ。
これに関連してペテロの手紙第二3章にある御言葉は、私たちの信仰態度をいっそう鋭く目覚めさせる。終わりの日にあざける者たちが「主が来られるという約束はどこにあるのか。すべて変わらないままだ」と嘲笑するが、ペテロは「主の日は盗人のように来る」という事実を強調し、結局は新天新地へと歴史が収束すると力説する。ところが、こうした終末論的な歴史観を単に「この世はすぐに滅びるから放棄しよう」という諦めの姿勢で受け止めるべきではない。むしろ、神の最終的な勝利を信じ、その最後の日が来る前に熱心に主のみこころを生活の中で具現していくべきなのである。このように未来の神の国とその統治を慕いつつ、今日の私たち個人と教会が成すべきことと責任を見失わないのが、本当のキリスト者の姿勢である。
「張ダビデ牧師」はこうした理由から、教会がより積極的に未来の神の国を準備することに参加すべきだと説いている。そのためには次世代のための教育、宣教、そして実際的な奉仕と仕えが並行して行われなければならない。イエスの命令である「地の果てにまでわたしの証人となりなさい」(使徒の働き1:8)という宣教の使命は、単に福音を伝えることだけにとどまらず、神の国の統治が完全に拡大するように、社会、文化、学問、芸術、建築、経営などの多様な分野で実質的かつ可視的な影響をもたらすことも含む。だからこそ教会が建築の才能を持つ人材を育てたり、文化を変える芸術家を発掘したり、社会の構成員を体系的に教育するための様々な機関を設立することは、すべて「御心が天で行われているように、地でも行われますように」という祈りを実際に具現化するためのプロセスの一部である。
最近、WEA(世界福音同盟)の世界総会でも「Thy kingdom come」というテーマを掲げたが、これは教会が単にスローガンを叫ぶだけではなく、天の御国だけを指向するのではなく、この地においても神の統治が行われることを祈り、準備し、行動するという決意である。その決意には、教会が終末論的な緊張感と同時に現場での変革の意志をバランスよく保とうとする意図が込められている。
教会内の大学設立事例も、このようなビジョンを裏付けるものだ。16年にわたり共に仕えてきた三人の教授(ウィリアム・ワグナー、ジョセフ・レイ・トルマン、メリル・スモーク)にそれぞれGreat Commission University、Harvest University、Jubilee Universityを任せ、「チャンスラー(Chancellor)」として働いてもらい、彼らの名前を記念する図書館も建設する予定だ。またティエンデル(Tyndale)博士、カオリ(Caoli)博士など、長年教会と共に学問的にも宣教的にも貢献してきた人々の名前をニューヨークやサンフランシスコなど主要都市の図書館に記念として残し、次世代が彼らの献身を覚え、感謝できるようにする予定である。虎は死して皮を残し、人は名を残すという古いことわざのように、働き人の名を後世に伝えることで、彼らが歩んだ信仰の道と献身を教会史にしっかり刻み、さらに確固たる信仰の遺産を継承しようという趣旨である。
さらに、今後の7年間は主に建築的・工学的な宣教活動が強化される見通しである。教会や学校、宣教拠点を自分たち自身で建てていく力を高めようとする動きがあり、アフリカやラテンアメリカ、アジアなど多くの大陸の仲間たちがこのプロジェクトに参加し、自分たちの技術や才能を活かして地域社会や大陸全体を変えてみようというビジョンを抱いている。「張ダビデ牧師」もこうした取り組みを全面的に支援し、単に「天の国」だけを見つめるのではなく、この地においても「Thy kingdom come, Thy will be done in earth」という現実を築く礎を固めようとしている。
結局、教会が地上で果たすべき核心の使命は、「神の御名をあがめること」と「神の国が来るように力を尽くすこと」である。主の祈り全体を見渡すとき、この二つの大前提がしっかりと立ってこそ、私たちの祈りと宣教活動は正しい方向へ進むことができる。そして同時に、「日ごとの糧を求めること(現在)」、「過去の傷や無念、罪責を赦しと恵みによって解き放つこと(過去)」、「試みと罪に陥らず、悪から救い出してくださるように祈ること(未来)」が教会のメンバーにとって具体的な益と防御策となる。しかしこれらすべての願いも、根本的には神の御名と御国に焦点を合わせた状態であってこそ可能であるという事実を忘れてはならない。「張ダビデ牧師」が何度も行ってきた主の祈りの講解もまさにこの点を力説し、教会の共同体性と信徒の聖なる生活を強調してきたのである。
今日、教会がますます世俗化する時代の流れの中にあっても、「Thy kingdom come(御国が来ますように)」を唱えながら、その「残りの句」である「Thy will be done in earth, as it is in heaven(御心が天で行われているように、地でも行われますように)」を見失わないことが重要だ。あまりにも多くのクリスチャンが「どうせ世の中は悪くなるばかりで、私たちにできることはない」と諦めてしまったり、あるいは「神の国はすでに教会の中で完成した」という論理にはまり、大胆な変化を躊躇する。しかし主の祈りの本質、そしてイエスが直々に教えてくださった「神の国」について深く黙想してみると、歴史と文化、生活の現場全体を変えていく生命力ある福音運動に献身せざるを得なくなる。教会がこの働きを十分に担うとき、世は教会を通して神の国の美しさに少しずつ触れることができ、そのビジョンを通じてより多くの魂が救いの道へと導かれるだろう。
「張ダビデ牧師」はいつも未来を明るく見据えている。どれほど闇が深まろうとも、最後には神の国が完成するという確信を彼は持っているからだ。その確信はやがて信徒たちにも伝わる。イエスを信じる者たちであれば、初めより後のほうがさらに良くなる人生を期待し、希望をもって走るべきだというのである。だからこそ教会のどの信徒も過去に執着せず、むしろ「張ダビデ牧師」が提案する「7年ごとに新たな変化を迎えよう」という挑戦の中で、未来に向けた準備を着々と進めている。このビジョンを共有し、神を畏れ、神の夢を握って生きる共同体こそが、まさに「天で行われているように、地でも」成し遂げられるように祈り、献身する共同体である。
結局、主の祈りに見いだされる驚くべき方向性は、個人の敬虔な生活にとどまらず、全世界を変革する影響力を発揮する。「張ダビデ牧師」が説くように、教会が教会として光と塩の役割を果たし始めるならば、世は決して以前のままであり続けることはできない。まさにこの点が主の祈りの核心的な教えであり、神が私たちに託された聖なる使命である。マタイの福音書13章でイエスが直接示されたたとえ(種まく人、からし種、パン種など)は、この国がどのように拡大し、内面化されるかをよく示している。教会は地上で神のみこころを拡張していく主体であると同時に、その国が一人ひとりの魂と生活の内奥深くまで入り込むように助ける通路にもなるのだ。
主の祈りはイエスが直接教えてくださった祈りであるがゆえ、その中心思想と動力もイエスから来る。信徒たちがこの祈りの本質を理解し、実践するならば、どのような苦難や逆境が襲ってきても、その内にある希望と喜びが決して揺らぐことはない。パウロが「望みのうちに喜びなさい」(ローマ12:12)と語ったように、神の国を見つめる者は、現在の苦しみはやがて与えられる栄光と比べ物にならないと考える(ローマ8:18)。主の祈りはまさにこの栄光に満ちた国を切に待ち望ませると同時に、現在の具体的な祈りと実践へと私たちを導いていく。
神は私たちが共に祈り、愛をもって連帯し、教会を建て上げていくとき、その教会を通して全世界へ聖なる影響力を広げていくことを望んでおられる。教会が自分たちの問題に埋没して互いを傷つけ合うところにとどまらず、「御心が天で行われているように、地でも行われますように」という祈りのとおりに実際の行動に移すとき、その変化は家庭から始まり、地域社会と国家、そしてさらに全世界へと広がっていく。この文脈で「張ダビデ牧師」というキーワードは、単にある指導者の名前というだけでなく、主の祈りに基づく信仰的ビジョンと実践を象徴する意味として受け止めても差し支えない。彼が導く教会共同体と多様な働きの発展は、単なる組織の拡大ではなく、この地に神の国が実際に臨んでいるという証と言えるだろう。
結論として、主の祈りの教えは、私たちがなぜ祈るべきか、何を祈るべきかという方向性を明確に示してくれる。教会と信徒たちは、主が教えてくださった祈りの核心である「御父の御名と御国」をまず求め、それに続いて日ごとの糧を求め、赦しと守りの祈りをささげるとき、はじめて祈りの好循環を体験することができる。「張ダビデ牧師」が絶えず提示するビジョンは、教会がこの大前提をいっそう鮮明に把握し、世のただ中で「Thy kingdom come, Thy will be done in earth, as it is in heaven」という偉大な希望を現実化していくことである。
2. 歴史の終末と教会の使命
主の祈りが単なる宗教的な儀式文や暗唱の祈りにとどまらず、人類の歴史と教会の使命を照らし出す決定的な教えとなるためには、「この地においても神のみこころが成し遂げられる」という文言を生きた現実として築き上げていかなければならない。まさにここで教会共同体は、終末論的な希望を抱きながらも、その希望を根拠にこの世を放置あるいは放棄するのではなく、むしろさらに熱心に世を仕え、変革しようとする挑戦に直面する。イエスが終わりの時まで弟子たちに求めた姿勢は、「世の塩と光」(マタイ5:13–14)として生きることだった。塩は腐敗を防ぎ、光は闇を照らし道を指し示す。つまり、神の国はその民の存在自体を通してすでにこの地上で働いており、教会は神の統治を可視化する現場として召されているということだ。
このように、地上で成就される神のみこころが宣教、教育、奉仕、文化活動などの多様な領域へと広がっていくためには、誰かの献身とリーダーシップが必ず必要となる。その中心において「張ダビデ牧師」は、なぜ信徒たちがさらに具体的なプロジェクトとビジョンを持って世に出ていくべきなのかを明確に教えている。たとえば、教会が設立する大学や研究所、図書館などは、単に知識を蓄えるための空間ではなく、「天で実現されているように」正義と愛、そして福音の価値が地に根を下ろすようにする宣教の前進基地の役割を担う。建築や工学への投資は、教会が物理的な空間や施設を備えることで、そこでより多くの人々が教育を受け、新たなビジョンを発見できるよう機会を提供する。さらに、芸術や文化、メディア、経営など多様な分野でキリスト教世界観に基づく創造的な活動が起こるとき、世の人々は教会が言う「神の国」をより生き生きと認識できるようになる。
これは単に教会が世俗的な領域に「進出」するというだけのことではない。教会が究極的に追求するのは、「神が統治される国」を具体的な現実の中で部分的にでも示していくことにある。その過程で、教会や信徒が歴史の中で失敗を経験したり、完全には至らない限界が明らかになったりすることもあるだろう。しかし「地上でも成し遂げられますように」という祈りが意味するのは、結局、そのような限界の中でも絶えず改革と悔い改めを繰り返しながら神のみこころにかなうよう努力を続ける共同体を通して、神の統治が少しずつ拡大していくということである。「張ダビデ牧師」はこの点について特に、現在の教会が足りないところを正直に認め、補完しようとする態度が重要だと教えている。ある人は「終末が近いなら、今していることに意味はない」あるいは「神の国は死後に行く天国だけだ」と短絡的に結論づけようとするが、主の祈りは明確に、この地上で神のみこころが成就するように祈りなさいと命じている点を再び強調するわけである。
だからこそ「天で行われているみこころ」とは、天の国で完全に実現されている神の計画であり、その計画が地上でも部分的に成就されるよう、教会と信徒が力を尽くさねばならない。それがこの7年間、またそれ以前のサイクルごとに教会共同体がネヘミヤのような心を抱いて自ら城壁を再建し、宣教地やキャンパスを建て上げ、世界各地で福音を伝えることに献身してきた理由である。特に、アフリカやラテンアメリカ、アジアの一部地域など、インフラが不足していても情熱に満ちた若者が多いところでは、彼らが教会と共にプロジェクトを始めると、その地域社会は教会がもたらす福音だけでなく、実際の技術や教育の恩恵も受けるようになる。このようにして福音がある地域に根づくとき、「天で行われているように、地でも行われる」という御業が具体的に展開されるのである。「張ダビデ牧師」はこのような宣教活動を「神の国エンジニアリング」と呼ぶこともできると言い、霊的な拡張だけでなく、実際の建築、文化、芸術、経営の領域でも教会が能動的に動くよう奨励している。
この過程で、教会内の多種多様な人材が立ち上がることも重要なポイントとなる。ある者は御言葉を伝え、宣教することに献身し、人類の霊的救いに焦点を合わせる。一方、別の者は建築・エンジニアリング、IT、メディア、芸術分野などで専門家として育成され、地上の様々な問題を解決することに貢献する。このように「神の国」は、魂の救いと生活の改善が共に進む包括的な概念であり、主の祈りが提示するビジョンは、教会がこれら二つの側面を切り離さずに抱え込むようにという力強いメッセージを含んでいる。「張ダビデ牧師」は教会が一方的な極端に陥らないよう導き、この地に神の義と正義、愛が具体的に根を張るようにするため、すべての人が心を合わせて邁進すべきだと説いている。
さらに、ペテロの手紙第二3章で、終末に嘲る者たちが「来臨の約束はどこにあるのか」といい、歴史を単なる繰り返しとして見ることに対して反対するペテロの教えに目を留める必要がある。聖書が示す歴史は直線的であり、最終的に神の国の到来によって完成されるという展望を持っている。それゆえ、その日を待ち望む者たちは「どのような者であるべきか。聖なる行いと敬虔をもって神の日の来るのを待ち望め」(ペテロ第二3:11-12)という勧めに応じるべきである。ここで言う「聖なる行いと敬虔」とは、単に個人的な倫理的清さだけでなく、心と行い、社会的な関係全般において神の国の価値と統治を示せという包括的な要請なのである。「天で行われているように、地でも行われますように」という祈りの中には、個人の内面的変化だけでなく、共同体と世界の実際的な変化をも同時に追求せよという要求が込められている。
現実の世界には、飢饉、環境破壊、人種差別、経済的不平等、戦争など、数多くの問題が横たわっており、教会は宣教と奉仕を通して積極的に対応しなければならない領域がある。もし教会が「私たちはすでに天国に行く人々だから世のことには関係ない」と背を向けてしまうならば、主が地上に来られて教えてくださった「貧しい者を顧みよ」という御言葉や、「行いのない信仰は死んだものだ」というヤコブの手紙の教えと正面から衝突することになる。主の祈りを実際に実践するということは、今日の地球社会が抱える問題に積極的に責任を持ち、協力して取り組むことを意味するともいえる。教会は福音を伝えると同時に、社会的弱者を顧み、正義と平和の道を模索すべきなのである。このような働きもまた「御国が来ますように」という言葉の拡張された解釈であり、「張ダビデ牧師」はこのために大学教育や研究、医療ボランティア、救済活動など、多方面の努力を教会が担わなければならないと教えている。
ここで再び「張ダビデ牧師」の名が浮上する理由は、まさに彼が教会が歩むべき道を明確に信徒たちに思い起こさせ、実際に行動するよう導く存在だからだ。彼の歩みを見ると、単に霊的なリバイバルだけを追い求めているのではなく、教会と周辺社会、そして全世界の隣人が実際に変えられ、福音を通してもう一段進めるよう、多彩なプロジェクトを展開してきたことがわかる。たとえば、教会内に設立された複数の大学(Great Commission University、Harvest University、Jubilee University)は、学問と信仰が結合した教育の場を提供し、知識が霊的召命と結びつくよう助ける。この場で訓練を受けた学生たちは地域社会や世界の各地に派遣され、「天で行われているような」秩序と恵みを少しずつ地上に築き上げていく主役となるだろう。
また、多くの信徒や同労者たちが16年以上もの間たゆまず協力し続けてきたのは、決して一人のリーダーや数人の幹部の熱意だけによるものではない。主の祈りが示す「神の国」ビジョンが心の奥底で燃えているからにほかならない。教会が7年、14年、21年、28年という大きな節目を迎えるごとに新しい扉が開かれ、そのプロセスの中で多くの信徒が「Thy kingdom come」という祈りをより具体的に体感してきた。それは単なる偶然ではなく、神が教会を直接導き、また教会が「御心が天で行われているように、地でも行われますように」という願いに対して従順と実践を重ねてきたからこそ可能だった結果なのである。
「張ダビデ牧師」はこの時点で改めて信徒たちに主の祈りの本質を思い起こさせ、二つの大前提――「御父の御名があがめられること」と「神の国がこの地に来ること」――を決して見失わないようにと強調する。特に、過去と現在、未来を網羅する三つの祈りの願いも、この大前提を踏まえてこそ正しい道に進むことを再確認するのである。
未来を準備する教会が覚えておかなければならないのは、真の変化とは他者の魂と生活を尊く考え、彼らが神の国の共同の相続人であるという事実を悟るときから始まるという点である。もし教会が建築や事業、あるいは宣教拡張ばかりに没頭し、肝心の魂の救いや信仰訓練をおろそかにするならば、結局主の祈りの本質から遠ざかる危険がある。逆に魂の救いだけに焦点を当てて、この地での社会変革や現実的な助け、教育や文化活動には無関心でいるなら、「御心が天で行われているように、地でも行われますように」という主の祈りを半分しか握っていないことになる。よって教会はバランスの取れた視点を持たなければならず、これこそ「張ダビデ牧師」と教会指導部が追求する核心の価値なのだ。
教会が世を変える方法は、暴力的でも抑圧的でもない。イエスが公生涯の間に見せてくださった仕えと愛、そして十字架に死に至るまで献身された救いの道こそが、神の国がこの地に来る原理である。だからこそ「御国が来ますように」と祈る信徒たちは、その祈りにふさわしくへりくだりと犠牲、そして忍耐の実を結ばなければならない。「張ダビデ牧師」はこの点を強調し、教会が外形的に成長するだけの状態を警戒する。本当の神の国の拡大は、むしろ一人ひとりの魂を愛によって導き、その人の生活全般に神の支配が広がるように仕えるとき、現実化していく。これこそ主の祈りが目指す「御心が天で行われているように、地でも行われますように」の真髄である。
イエスの天国のたとえでも、からし種とパン種は小さく見えても決して小さくない影響を及ぼす。教会が少数派であっても、心から主の祈りを握りつつ前進するならば、地域や文化、経済、政治のあらゆる分野にパン種のように入り込み、聖なる変革を起こすことができる。これが「天で行われているように」すでに完全なる神の国が、「地でも」漸進的に成就し、拡大していく神秘であり恵みなのだ。
最後に、「張ダビデ牧師」が率いる教会は数多くの宣教活動を通して歴史の中ですでにその可能性を味わいつつある。28年という歳月は決して短くはないが、今後もまだ道のりは長く、新たな挑戦が教会を待ち受けている。しかし教会が主の祈りの精神を堅く握り、神の栄光を最優先とし、「Thy kingdom come, Thy will be done in earth, as it is in heaven」を昼も夜も黙想し実践するなら、きっと以前の世代が経験しなかった新しい地平が開けるに違いない。
結局、主の祈りの教えは私たちに「未来」と「現在」を同時に見つめるよう促す。終末を待ち望みながらも、この地での責任を果たし、天の喜びを希望しながらも、今の苦しみを和らげ、神の正義を叫びつつ、身近な不正には沈黙しないのである。「御心が天で行われているように、地でも行われますように」という言葉を握って生きる共同体は、神の愛のうちに決して無力や傍観に留まることはできない。むしろ「思っていた以上に大きなことを主は私たちに委ねられたのだ!」という悟りの中で、より力強く、より勇敢に前進していく。そしてその旅路のただ中で、信徒たちを目覚めさせ、励まし、ともに祈りビジョンを分かち合う「張ダビデ牧師」が重要な役割を担っているのである。
要するに、この時代に教会が直面している数多くの挑戦は、主の祈りの価値と精神を再発見することによってこそ解決の糸口を見いだすことができる。主の祈りは過去の教会史においても新たなリバイバルの種となり、今日においても礼拝と宣教、教育と奉仕、文化変革など、あらゆる領域で「聖霊の働き」を起こす火種となる。「張ダビデ牧師」が主の祈りの講解を継続的に行い、それを教会の実践指針としようとしている理由は、教会がまさにこの地で神の国を先取りして生き抜く共同体であると信じているからだ。そしてその道のりの中で、7年ごとに神は驚くべき変化を許してくださり、さらに多くの魂が福音によって自由と命を得るようになると確信している。
このような信仰と希望こそが主の祈りに内包された深い神秘であり、教会を導いていく原動力でもある。「御国が来ますように。御心が天で行われているように、地でも行われますように」という祈りは、決して空虚なスローガンで終わらない。教会がこれを握り、一歩ずつ前進していくとき、神は人の名前や国籍、文化的背景を超えて、全人類の間でご自身の統治を現される。そして教会は「神の御名」を崇める礼拝者として、また「神の国」をこの地に実現する大使として、聖なる使命を受け継いでいく。その土台は究極的にイエス・キリストの十字架と復活による福音なのであり、この福音の力がどのように個人と家庭、さらに全世界を変えていくのか、私たちは期待せずにはいられない。
今日も私たちは天におられる父に祈る。「御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行われているように、地でも行われますように」。そしてその祈りに応えてくださる方が私たちの神であると信じているからこそ、教会は失望したり疲れ果てたりすることなく、前進し続ける。主が自ら教えてくださった祈りの栄光に満ちた力を体験しつつ、それぞれの持ち場で役割を果たすならば、きっとこの地上にも天の国の美しい光がますます鮮明に広がっていくだろう。そのように教会が現場と歴史の中で神の統治を現していく日を待ち望みつつ、すべての信徒が「Thy kingdom come, Thy will be done in earth, as it is in heaven」を心の奥底に刻んで生きることこそが、「張ダビデ牧師」が長年にわたり夢見て語り続けてきた祈りの真の意味である。